大判例

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名古屋高等裁判所 昭和31年(ラ)35号 決定 1956年7月18日

抗告人 松山弘子

相手方 川井明男

主文

原決定を取消す。

事件本人川井孝夫の親権者を抗告人母松山弘子に変更する。

本件手続費用は第一、二審共相手方の負担とする。

理由

抗告代理人は主文第一、二項同旨の決定を求めた。

抗告理由は別紙抗告の理由書記載の通り。

案ずるに原審並に当審において取調べたる疏明方法即ち抗告人及び相手方の戸籍謄本又は戸籍抄本、磯尾竹雄、春日井米子、田中ひな、岸信子、松山助夫、松山清子、抗告人(原審並に当審)、相手方の各供述、家事調査官永井輝男作成の調査報告書の記載を合せ考えると、相手方は抗告人と離婚するにあたり同夫婦間に儲けた一子事件本人川井孝夫を、抗告人の哀訴を却けて自ら監護養育する旨主張してその親権者となりながら、その実右離婚の協議中既に右事件本人を訴外磯尾竹雄夫婦の事実上の養子となして逸早くこれを手離して、自らは些もその監護養育をなすことなく、その後間もなく訴外坂井田鶴子と婚姻して将来とも事件本人を監督養育する意図はこれを伺うに由なきに反し、抗告人は事件本人をこよなく愛し当初より自ら手許に引取り愛育したい所存であつたが、父親たる相手方の下にて養育せられる方が事件本人の幸福であるという実父助夫等の説得により漸くにして諦めこれを相手方に託する決意をしたところ相手方が右のように思いの外事件本人を手塩にかけて愛育することなく右から左え他人の手に委ねたことを知るや愈々事件本人に対する不憐の情を加え自らこれを手許に引取つて監護養育せんとするの母性愛に燃え、抗告人方父母、兄弟、嫂等も亦皆抗告人の悲願の成就に一致協力し抗告人を庇護してその居室を整え、ここにおいて抗告人をしてミシンの加工をなさしめ、抗告人はこれによりて月々金一万円程の収入を得、再婚の望を持つことなく物心両面において只管事件本人の受入態勢を整えていることが認められる。よつて事件本人の親権者としては父親たる相手方は極めて不適任であり、母親たる抗告人をしてその親権者たらしめる方が事件本人のために一層幸福であることは一点の疑を容れる余地がない。たゞ事件本人を前記説示のように訴外磯尾竹雄夫婦に委ねるのと、抗告人の下に引取らせるのといずれが事件本人の幸福であるかということは将来において解決せられるべき問題であり、事件本人の親権者を誰にするかという本質的問題をさし置いてこれに優先して決すべき問題ではない。

よつて抗告人の本件申立は相当であるのでこれを認容し事件本人川井孝夫の親権者を抗告人母松山弘子に変更すべく、右と所見を異にする原決定は不当なるをもつてこれを取消すべきものとなし、家事審判法第七条、非訟事件手続法第二十五条、民事訴訟法第四百十四条、第三百八十六条、第九十六条、第八十九条によつて主文のように決定する。

(裁判官 山田市平 県宏 小沢三朗)

抗告の理由

一、抗告人は、昭和二十八年二月十八日相手方と結婚式を挙げ爾来同棲して昭和二十九年二月二十六日相手方との間に長男孝夫をもうけた。ここに特に留意されたいことは一件記録中の調査報告書第三項事件申立経過表に「二七年2、18明男弘子結婚(内縁)11、19結婚届出」とあるは事実と相違し、昭和二十七年十一月十九日婚姻届出をしたことは事実であるが、抗告人と相手方が結婚式を挙げ事実上夫婦の交りをしたのはその翌二十八年二月十八日である。かかる事例は洵に珍らしい事柄であるが、相手方は国鉄職員であつて正妻があれば家族手当の支給を受けられるということから抗告人と相手方との結婚話が成立し、昭和二十七年十一月十九日に結納が取交わされるや相手方の要望により同日婚姻したことに届出がなされたのである。つまり家族手当の支給を受ける手段として事実上結婚する前に届出丈けがなされたもので、このことは相手方とその母との物質慾(記録中にも相手方の母の物慾異常性が散見される)に基因するものと思われるが抗告人と相手方との離婚原因はこうしたところに素因があつたのである。原審においては事実上の結婚日などについて毫も取調、調査をせず、届出が昭和二十七年十一月十九日であるから(戸籍上)結婚式の「二月十八日」はその前即ち同年二月十八日であろうという普通常識によつて早のみこみをしているのである。このような原審の粗奔な考え方が本件審判の結果として現われたものではなかろうか。

抗告人は本件審判事件について弁護士に相談せず代理を依頼せず調停期日において抗告人やその父松山助夫が調停委員に詳細申述べたことは記録に留められすべて審判記録に残り審判資料となるものと思つていたところ、后日(審判后)記録をみて父松山助夫の申述べたことはもちろん記録になく、抗告人が婚姻届が結婚式(事実上の婚姻)よりも先になされた事情なども記録に現われていないのに驚いているのである。もちろんその愚や笑うべきものであろうが原審としては須らく抗告人の申立の当否を審判するに当つては相手方の姉妹を調べると同様、たとえ素人の抗告人の申出をまつまでもなく抗告人を親権者とすることについての当否を判断する資料として抗告人の父、母、兄嫂なども職権をもつて一応尋問すべきではないだろうか。かかる慎重な審理をしなかつたために原審判には事実の誤認が多々存するのであろう。

二、そして、抗告人は一子孝夫を所謂掌中の玉として愛撫養育して来たが、相手方及びその母の冷酷な日常生活上の精神的虐待に耐えかねて(その片鱗は調査報告書中にも現われているし証人田中ひなの証言中にも見える)昭和三十年三月二十日頃孝夫を伴つて実家に逃避し離婚を決意した。そして三月末頃に抗告人、相手方及び双方の両親らが媒酌人田中ひな方に会合し話合の上で抗告人と相手方とは離婚することに合意成立したが、その際長男孝夫の監護養育を誰がするか、即ち親権者を誰にするかの点が問題になり抗告人は極力孝夫を引取り養育したい旨を主張したが相手方これに反対し容易に妥協がつかなかつた。しかし抗告人は相手方及びその母の冷酷な性格を知悉していたので生后漸く満一年に達したばかりの乳児を手放し相手方に委ねても所詮親の愛情をもつて相手方が手許で監護養育することは期待できないし、他人の手にでも渡されてはと憂慮して再三孝夫を引取りたい旨を主張懇願したが相手方は自身孝夫を養育し決して他家へ養子に出すようなことはしない、立派に仕遂げると誓約したし、抗告人の父松山助夫が地方の旧慣として夫婦離婚の際には男児は父親において、女児は母親において引取ることが行われていることでもあり、相手方において手許で養育し決して人手に渡すようなことはしないと誓言していることであつて、突嗟の間抗告人の願望を遂げさせてやる正当理由も見出しかねたので、抗告人に対し相手方の誓約及び旧慣を説いてその願望の無理なことをさとらしめたので抗告人も納得して長男孝夫の親権者を相手方と定めることに同意し泣く泣く同伴した孝夫を相手方に手渡したのである。そして同年四月二日再び右田中ひな方に会合して離婚届を作成し相手方に届出方を委託したのである。

抗告人は三月三十一日相手方に孝夫を引渡したが愛情絶ちがたく乳がはつて来て止むに止まれず相手方宅に赴き孝夫に乳を飲まさせてやつてくれと懇願したが拒絶され孝夫にも会わされず追いかえされたのであつた。後に判明したことであるが、その時には孝夫を養子に貰うべく磯尾夫婦が川井宅に来ていたのである。

三、ところで相手方は抗告人との離婚話が出ると同時に孝夫の貰い手を探していた模様で、四月二日(前記離婚届作成の日)孝夫を磯尾竹雄夫婦に事実上養子として引渡すことに決定し、同月四日には孝夫を磯尾夫妻に引渡して仕舞つてから同月七日に抗告人との離婚届出をしたものであつて、離婚届において親権者を父たる相手方と定めてはあるもののその実すでに四月四日に他人に孝夫を事実上養子として引渡しているのであつて、父親として真実孝夫を監護養育する愛情も誠意もなく全く抗告人を偽罔してめんつを立てただけであろう。(記録中調査報告書第三項事件申立経過表参照)

この点に関して原審判においては「申立人と相手方とは昭和三十年四月七日協議離婚をして申立人は実家に復帰したが、その際に孝夫の親権者を父である相手方と定め相手方の許において養育することにしたが、相手方は母親が病気のため入院し女手がないので孝夫の養育を遠縁にあたる磯尾竹雄、同米子夫婦に事実上の養子として養育せしめ」と一応尤もらしく説示されているが真相は前叙のとおりであり、相手方の母はまが病気で入院したのは昭和三十年二月七日で同月二十八日には退院している(添付の松波賢吾医師の証明書及び記録中調査報告書第七項「親権変更について」参照)のであつて原審は事実を誤認している。なお原審判においては「養子として入籍すべく昭和三十一年四月十八日当裁判所に養子縁組の申立をしている」云々と説示しているが記録中調査報告書の第二項「本件申立の経緯」第三項「事件申立経過表」によつて明らかなように養子縁組許可の審判申立のなされたのは昭和三十年四月七日(離婚届出の日)で四月十八日というのは申立人の意見をきくために原裁判所が申立人を呼出した日である。かかる事実についてまで誤認をされている原審判の結論には申立人として心服できないのである。

四、元来親権は血縁関係に基く親の未成年の子を養育するという人類の本能的生活関係を社会規範として承認し、これを法律関係として保護することを本質とするものである(東京高等裁判所昭和三十年(ラ)第一九八号、同年九月六日第四民事部決定、高裁判例集第八巻第七号四六七頁)、そして権利といわんよりもむしろ崇高なる親の義務である。たやすくこれが回避を許さるべきものではないのである。ところが事件本人孝夫の父である相手方は事件本人の養育をなさず事件本人を第三者夫婦をして養育せしめ、相手方の代諾によつてこれと養子縁組をなすことにより事件本人に対する親権行使の責任を終局的に回避しようとしているのである。これに反し抗告人は事件本人を実母の手によつて監護養育しその幸福を親の義務とし責任として守り遂げようと切願しているのみならず、その能力も十分に有しているのである。(記録中調査報告書、抗告人の審問調書等参照)。原審判が磯尾夫妻の人柄、生活振り、事件本人に対する愛情を説いて事件本人の将来の幸福、利益を論ぜられるのも一理であろうが、腹を痛めない人に真実の親子の情愛を無批判的に期待できるであろうか。この場合抗告人に事件本人に対する実母としての愛情なくこれを養育する能力なしというならばいざ知らず前叙の如く抗告人は乳幼児たる事件本人を手許に引取り養育することを切望しておりその能力の認められるのであるから、前記のように親としての責任回避を策している冷酷な父たる相手方の親権を解いて、実母たる抗告人を事件本人の親権者となすのが最も妥当な措置ではなかろうか。

なお相手方は事件本人を他人の手に委ね既に再婚しているのである。(添附戸籍謄本参照)

五、叙上のように原審判は到底納得できないので何卒原審判を取消し事件本人川井孝夫の親権者を抗告人に変更する旨の御裁判を仰ぎたく本抗告に及んだ次第である。

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